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砂漠の民の
ちょっと前まで東京では食べることのできなかった本場のモロッ
コ料理。久しぶりに食べたクスクスの懐かしい味に、戸塚省三の思
いはかつて訪れたモロッコから、さらに、タンジェの港で観光客を
騙す怪しげな職員の思い出へと飛んでゆくのだった。
 
 
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日本はなんて安全な国なんだろう
 海外旅行から成田に戻り明日からまた普段の生活に戻るのかと思うと、いつもながら祭りの終わりのようなつまらなさを感じるのだけど、反対にほっとすることもある。
 まずは、もう日本語を話してもいいってことでほっとするし、チップのあの煩わしさから開放されてせいせいする。それからもう一つ、騙されたり盗まれないようにいつも用心をしている必要がなくなって、ほっとする。これは別に誇張でもなんでもなく、とにかく日本から外に出ると、どの国でも皆さんじつにマメに、そしてセコく盗んだり騙したりしてくれ、そうなると盗まれるほうこそスキがあるから悪いってことになる。
 僕の場合、これまでに小は雨傘から大はレンタカーまで盗まれたし、騙されたこととなるともう日常茶飯事だから数限りない。タクシーは遠回りや釣り銭をごまかすのは朝飯前だし、店では値段をふっかける。レストランでもしょっちゅう勘定が合わないから検算をする必要がある。街角で出会った青年が町の案内役を買っ出てくれるのはいいけれど、最後は自分の知り合いの土産物屋へ連れて行ったり、ガイド料を要求したりする。ある国ではやはり街角で知り合った真面目そうな学生が、自分の女友達を一晩幾らで買わないかと誘ってきた。おかげで、いつしかコーヒー一
杯の勘定を疑い、街で話しかけてくる人間を疑い、そのうち疑うことにも慣れてしまうんだけど、そんな時、ふと日本を思い出すと、日本はなんて安全な国なんだろうとつくづく思うわけだ。
旅上手は、騙され上手
 前にモロッコへ行った時も例外ではなく、僕は日に何度も騙されそうになった。そして、モロッコを発つ最後の日に、タンジェの港で見事に引っかけられてしまった。モロッコで食べたクスクスやタジンも美味しかったけど、騙された時のあの味も、また格別だった。その日の朝、僕は11時半のフェリーでジブルラタル海峡を渡りスペインに戻るために、タンジェのホテルからタクシーで港へ行った。タクシーを降りると港の職員らしい男が近づいてきて「11時のフェリーに乗るんですか?それなら、急いだほうがいい」と言う。フェリーの出航時間は確か11時30分のはずだから変だなとは思ったのだけど、見ると男の胸にはターミナル職員のIDカードがぶら下がっていた。それで、僕はホテルで調べたフェリーの時間が間違っていたに違いないと、何の疑いもなく男の言葉を信じてしまった。それがそもそもの間違いだった。
 びっくりして時計を見るとすでに11時を少し回っているではないか。するとその男は、大丈夫だから私について来て下さいと言うなり、親切にも僕の荷物をつかんで走りだした。走りながらも、そいつは11時発だから急いで下さいと念を押す。こっちだってこれを逃したら次のフェリーまで何時間も待たなければならないから、必死でそいつの後について走った。男は近くの職員事務所に行くとチケットをポーディング・カードに代えてくれ、それから再びまだ間に合うからと催促しながら、フェリーの乗り場に向かって走った。ところが駐車してあるクルマの影に来たところでやにわに振り向くと、こう言うではないか。「ダンナ、これだけのことをしたんだから、お礼に幾らか下さいよね」
 走っている男の背中を眺めながら、こいつはただじゃ済まないぞと薄々は感じていたが、こう露骨にくるとは思わなかった。しかもれっきとした職員だよこいつは。しょうがないので、ポケットの中を探ってみると出国前だからモロッコのお金は全部使い切っていて、10ディルハム札1枚しか残ってなかった。で、しかたなくその10ディルハムを男に差し出しすと、そいつは、本性を丸出しにして声を荒らげ、まくしたてた。
 「たったの10ディルハムだって?これだけのことを特別にしてあげたのに?!普通なら2階のカウンターまで行ってチェックインしなければいけないんですぜ!」
 しかし、彼のお蔭でフェリーに乗り遅れなかったんだから、ま、いいかと思い、さらにバッグの底から見つけたスペインの100ペセタのコインを5、6枚渡してやった。これだって当時のレートで500円くらいにはなるから、チップとしては上等だ。ところが、男は礼を言うどころか、さらに険悪な顔つきで僕をにらみつけた。「それなら、自分で手続きをするかい?こうなったら、もう次のフェリーに乗るしかないね!」男はそう捨てぜりふを残すと、プイと消えてしまった。
 時計を見ると、もう11時10分だ。それでもまだ間に合うかもしれないというかすかな希望とともに、僕は税関ゲートまで走った。そして税関に着くや、いつフェリーが出てしまうかもわからないので、慌てふためいて出国カードに記入し、税関を抜け、一目散に乗船ゲートへ駆け込んだ。
 ところがだ、乗船ゲートまでくると、ゲートはまだ閉まったままで、フェリーボートは何事もなく静かに停泊している。待合室では乗客たちがぼんやりと待っている。拍子抜けした気分で近くにいた係員に聞いてみると、出航はやはり11時30分だった。つまり、まんまとあの男に騙されたってわけだ。それもせいぜい数百円のために。
 今回、神楽坂の「アガディール」でモロッコ料理を食べたついでに、タンジェでのこんなことまで思い出してしまったわけだ。だけど、今から思えば、たいした金額でもないのにいっしょうけんめい僕を騙してくれたあの男に、腹が立つよりも、その熱意にただただ感心するばかりだ。
 でもね、考えようによっては、こうやって騙されることも旅のうちで、めったに得られない体験だと思うんだな。見知らぬ国の文化と人間を知り体験することが、旅本来の目的だとすれば、騙されるということも、親切にされるとか、友達になるのと同じように、旅行者が旅先の国の人間を知る数少ない機会の一つなのだ。それを考えると、世間には旅上手という言葉があるけれど、本当の旅上手は騙され上手であるとも言えるだろう。もちろん誘拐されたり、殺されたりしない限りでの話だけど。
戸塚省三プロフィール
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